
佐志島津家の御仮屋跡
藩政時代の佐志郷は,佐志島津家3千石の私領地で,現在の佐志小学校と佐志交流館のある敷地に領主の御仮屋が置かれました。佐志島津家は,島津義弘の末娘御下(千鶴)に3千石の化粧料が下賜されたことに始まり,兄の忠清が初代を務め,子・久近(2代),藩主光久の子・久岑(3代),久當(4代)が跡を継ぎます。4代久當のときに一所持ちの家格とされ,明治2年に領地を返上するまで佐志島津家がこの地を治めました。

佐志小学校の正門(左)と旧佐志中学校の正門(右)
佐志小学校の起源は明治4年の郷校。佐志中学校は昭和45年に閉校となり,宮之城中学校に統合されました。佐志中学校跡に佐志交流館が建てられています。

佐志小学校の石垣(御仮屋跡)
御仮屋跡の前面に約250mにわたり石垣が続いています。

佐志交流館近くの商店

佐志交流館近くの町並み
御仮屋の周囲に郷士が居住したようですが,佐志交流館の近くに石柱門(右上)が残っています。
義弘の娘・御下について
義弘の末娘として生まれた御下(おした)は,波瀾の生涯を送ると同時に,当時の島津家の外内に大きな役割を務めた女性です。伊集院忠真に嫁ぎますが,夫・忠真は御下の兄である家久によって殺害されました。御下は家久にかわって娘と一緒に江戸で人質生活を送ります。帰国後は,人質の功績として3千石の化粧料が与えられ,また,家久の命により宮之城島津家3代当主の久元と再婚します。元久との間に子供(久近)をもうけましたが,久近は15歳の若さで死去し,夫・久元にも先立たれます。久元は宮之城島津家の菩提寺・宗功寺に,御下は佐志の興全寺に葬られました。
訪 問:2024年3月21日(一部:2007.11)
史 跡:興全寺跡/阿字賀神社/歳久公五輪塔/佐志の切開殿の供養塔群/穴川/佐志駅跡
参 考:さつま町ホームページ等
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